市場原理主義の先の「豊かさ」を求めて:宇沢弘文『人間の経済』が示すもう一つの道
- 2025.06.10
- コラム

現代社会を生きる私たちにとって、「経済」という言葉は、効率性、成長、競争といったキーワードと結びつきがちです。GDPの伸び、株価の変動、企業の競争力……。これらが私たちの生活の豊かさを測る主要な指標であるかのように語られることが少なくありません。
しかし、本当にそうでしょうか?
経済学の巨匠、宇沢弘文は、晩年に著した『人間の経済』(岩波新書)において、このような現代経済学、特に新古典派経済学が前提とする市場メカニズムへの絶対的な信頼に対し、痛烈な批判を投げかけ、人間が人間らしく生きるための「豊かさ」とは何かを問い直しました。
本書は、単なる経済学の入門書ではありません。それは、私たちが暮らす社会のあり方、ひいては私たちの価値観そのものに深く切り込む哲学的な問いかけに満ちています。
市場原理主義が奪ったもの:かけがえのない「社会的共通資本」
宇沢先生は、現代経済学が「市場」を万能な調整メカニズムと捉え、すべてを市場に委ねることで社会が最適化されるという思想、いわゆる市場原理主義が、いかに私たちの社会にとってかけがえのないものを破壊してきたかを指摘します。その最たるものが、「社会的共通資本」という概念です。
宇沢先生は本書で、社会的共通資本を以下のように定義しています。
「一つの特定の社会ないしは地域に居住するすべての人々が、ゆたかな生活を営むことを可能にするような社会的な装置を意味する」(P.4)
具体的には、自然環境(大気、森林、河川、海洋など)、社会的インフラ(道路、鉄道、電力、上下水道、通信網など)、制度資本(医療、教育、金融システム、司法制度など)がこれにあたります。
宇沢先生は、これらは市場競争にさらすことで効率化されるどころか、その本質的な価値が損なわれ、社会全体の厚生を著しく低下させると警鐘を鳴らします。
例えば、医療や教育。これらを完全に市場原理に委ねれば、利益追求が最優先され、経済的に弱い人々は適切な医療や教育を受けられなくなる可能性があります。それは、社会全体の公正さや持続可能性を根底から揺るがしかねません。
「医療は、本来、人々が人間らしく生きるうえで最も不可欠な、基本的な人権を保証するものであり、その提供は、市場メカニズムに委ねられてはならないものである。」(P.86)
この言葉は、今日の医療における格差や、営利目的の医療行為が問題視される現状を予見していたかのようです。宇沢先生は、社会的共通資本は、市場経済の「外部」に置かれ、社会全体でその維持・管理に責任を負うべきものであると強く主張します。
「効率性」の罠:なぜ私たちは疲弊するのか
本書では、現代経済学が「効率性」を過度に追求するあまり、人間が本来持っている多面的な価値を無視している点も厳しく批判されています。
新古典派経済学は、経済主体を合理的な意思決定を行う「ホモ・エコノミカス(経済人)」と仮定し、利潤最大化や効用最大化を目指すことで社会全体が効率的に機能すると考えます。しかし、宇沢先生は、人間は決して合理性だけで動く存在ではなく、倫理観や道徳心、他者への共感といった要素が不可欠であると説きます。
「新古典派経済学の理論体系では、経済主体が合理性を追求する結果として、倫理的、道徳的な判断が完全に排除されることになる。」(P.47)
この「合理性」の名のもとに、環境が破壊され、貧富の差が拡大し、人々が過度な競争にさらされる現代社会の病巣を、宇沢先生は鋭くえぐり出します。私たちは、効率性を追求するあまり、本来大切にすべき人間関係や心のゆとり、自然との調和といった「豊かさ」を見失ってはいないでしょうか。
環境問題への視点:経済学の限界を超える
宇沢先生は、環境問題を経済学の視点から深く掘り下げた先駆者の一人でもあります。彼は、汚染物質排出権取引のような「市場メカニズム」を利用した環境対策が、根本的な解決にはならないと指摘します。なぜなら、汚染は「市場の失敗」として片付けられる問題ではなく、経済活動が「自然環境」というかけがえのない社会的共通資本を損なっているという構造的な問題だからです。
「大気や水質汚染は、単に技術的な問題として扱われるべきものではなく、人間社会の根本的なあり方に関わる問題である。」(P.158)
環境問題への対処は、単にコストと利益を計算する話ではなく、私たちが地球という限られた資源の中で、いかに持続可能な社会を築くかという倫理的・哲学的な問いへと繋がっています。宇沢先生は、経済学がその限界を超え、より広範な視点から問題を捉える必要性を訴えました。
「人間の経済」への回帰:未来への希望
本書の根底にあるのは、人間が本来持っている知性、感性、そして他者への共感を信じ、「人間が人間らしく生きる」ことを最上位に置く経済システムを構想しようとする強いメッセージです。
宇沢先生は、理想的な経済の姿として、江戸時代の日本の社会や、戦後復興期の日本の社会にその萌芽を見出します。そこには、市場メカニズムとは異なる、互助や共生、そして共同体の維持を重んじる精神が存在していました。
「人間の経済学とは、私たちが社会を形成し、その中で互いに助け合い、支え合いながら、ゆたかな生活を営むことを可能にするような経済学である。」(P.200)
本書は、現代経済学の主流派への痛烈な批判であると同時に、私たち自身の生き方、そして社会のあり方を根本から問い直すための貴重な指南書です。私たちは、果たして「効率」や「成長」の名のもとに、本当に大切なものを犠牲にしてはいないか? 私たちの社会は、真に人間にとって「豊か」なものになっているか?
『人間の経済』は、そのような問いを私たちに投げかけ、混迷する現代社会において、人間中心の、より公正で持続可能な未来を築くための羅針盤となる一冊です。経済学に興味がある方はもちろん、社会のあり方について深く考えたいすべての人に、ぜひ手に取っていただきたい名著です。読み終えたとき、きっとあなたの「豊かさ」の定義が変わるはずです。
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