ガムはビジネスツール? ~ポストモダン社会における「価値の再定義」の驚くべき事例~
- 2025.06.23
- コラム

皆さんは、仕事中にガムを噛む習慣はありますか? 「気分転換」「口寂しいから」「食後のエチケット」…そう思っていた方も多いかもしれません。しかし近年、ガムは単なる嗜好品や口臭ケアアイテムという枠を超え、「ビジネスツール」としてその価値を再定義されつつあります。
例えば、プレゼンテーション前の緊張を和らげるため、あるいは長時間集中が必要な作業中に眠気を覚ますため。はたまた、集中力を高めて効率的にタスクをこなすため、といった具合に、ガムがビジネスパフォーマンスを向上させるための手段として積極的に活用され始めているのです。
この現象は、単なる機能追加では説明できません。なぜなら、ガムの「噛む」という行為そのものは昔から変わっていないのに、私たちがそれに付与する「価値」が大きく変容しているからです。
これはまさに、哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの提唱したポストモダン思想を援用することで、そのメカニズムを深く理解できる興味深い事例と言えるでしょう。
「大きな物語」の揺らぎと「ビジネスパーソンの生産性」という新たな焦点
ジャン=フランソワ・リオタールは、その主著『ポストモダンの条件』(1979年)において、ポストモダンとは「大きな物語に対する不信 (incredulity toward metanarratives)」の時代であると定義しました。近代社会は、「無限の進歩」「理性による解放」「普遍的な幸福」といった壮大な「大きな物語」によって、その価値観や規範を正当化し、人々を鼓舞してきました。
しかし、リオタールによれば、20世紀の歴史的惨事やテクノロジーの進歩がもたらした新たな課題(環境問題や情報過多など)は、これらの大きな物語が持つ求心力や説得力を失わせました。もはや、一つの絶対的な真理や普遍的な価値観が存在するという前提が崩れ、社会全体を覆う共通の価値基準が揺らいでいるのです。
「ポストモダンとは、われわれの知が大きな物語を、もはや有効なものとは見なさなくなったその状況、ということである。」(Lyotard, The Postmodern Condition: A Report on Knowledge, 1984, p. xxiv)
この「大きな物語の不信」が、ガムの価値再定義の土台となっています。かつて、ビジネスパーソンの「成功」は、「努力」「根性」「長時間労働」といった、ある種の「大きな物語」(例:終身雇用や年功序列といった会社組織の大きな物語、あるいは経済成長至上主義の国家の大きな物語)に支えられた価値観の下で語られていました。しかし、現代社会では、これらの物語もまた揺らいでいます。
代わりに台頭してきたのが、「生産性の最大化」「ワークライフバランスの実現」「精神的ウェルビーイング」といった、より個人的で具体的な「小さな物語」です。これらの小さな物語は、もはや普遍的な「こうあるべき」を押し付けるものではなく、個々のビジネスパーソンが自らのキャリアや生活において追求する、多様な「善」の形を示唆しています。
ガムに付与された新たな「小さな物語」の価値
この「小さな物語」の台頭こそが、ガムの価値を再定義する原動力となりました。
1. 「効率性・生産性」という小さな物語
現代ビジネスでは、限られた時間で最大の成果を出す「効率性」と「生産性」が強く求められます。この「小さな物語」の下で、ガムは「脳機能向上ツール」としての価値を獲得しました。
- かつての価値: 気分転換、口臭ケア
- 新たな価値: 集中力・記憶力の向上、眠気覚まし、情報処理能力のブースト
例えば、特定のガムの広告が「集中力を高める」「仕事の効率アップをサポート」といったフレーズを用いるのは、まさにガムをこの「生産性」という小さな物語に結びつけ、新たな価値を提示しているからです。
リオタールが「科学は、普遍的な真理を追求するという近代の大きな物語から、パフォーマンス原理に基づいて知識を正当化するというゲームへと移行した。」 (Lyotard, The Postmodern Condition, 1984, p. 37) と述べているように、ガムの研究も「より良い口臭ケア」といった普遍的価値から、「脳機能のパフォーマンス向上」という具体的な効果(パフォーマンス)を示すことで、新たな正当性を得ています。
2. 「ストレス管理・ウェルビーイング」という小さな物語
現代社会は、情報過多や競争激化により、ビジネスパーソンがストレスを抱えやすい環境にあります。「心身の健康を保ちながら働く」という「小さな物語」が重要視される中で、ガムは「手軽なメンタルケア補助食品」としての価値を得ました。
- かつての価値: 気分転換
- 新たな価値: ストレス軽減、緊張緩和、リフレッシュによる心理的安定
プレゼン前の緊張を和らげるためにガムを噛む行為は、まさに個人のウェルビーイングを追求するという小さな物語に沿った行動であり、ガムがそのための「ツール」として機能していることを示しています。
3. 「セルフケア・自己管理」という小さな物語
自己責任が強調される現代において、ビジネスパーソンは自身のパフォーマンスを自己管理する能力が求められます。ガムは、口臭ケアといった基本的なエチケットはもちろんのこと、集中力やリラックス状態を「自ら管理」するための手軽な手段として、この「セルフケア・自己管理」という小さな物語に組み込まれました。
終わりに:多様な価値が共存するポストモダン社会
ガムが「ビジネスツール」へと価値を再定義された現象は、リオタールが描いたポストモダンの姿を鮮やかに示しています。もはや、ガムに「お菓子」という普遍的な価値が固定されているわけではありません。むしろ、個々人が追求する「生産性」「ウェルビーイング」「セルフケア」といった多様な「小さな物語」の中で、ガムがそれぞれ異なる意味と価値を付与され、活用されているのです。
これは、現代社会において、あらゆるモノやサービスが、私たち自身の「小さな物語」と結びつき、常にその価値を再構築し続ける可能性を秘めていることを示唆しています。あなたの身の回りにある「当たり前」のものが、実はすでに新たな「価値」を帯び始めているかもしれません。
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